ノモンハン事件を検証する [転載禁止]©2ch.net

1名無しさん@お腹いっぱい。2014/11/13(木) 16:56:58.09ID:gfM84pvs
 モスクワは間一髪のところで陥落を免れた。一二月第一週にはドイツ軍がクレムリンから三五キロの
地点に迫っていた。ドイツ軍将校の双眼鏡でモスクワの主要な建造物を確認できる距離だった。先導し
ていたのは装甲部隊である。一二月五日から六日にかけて、ジューコフは集中攻勢を仕掛けた。主力は
「シベリア兵」からなる部隊。ソ連極東部から送り出されてた新来の予備兵力で、そのなかにはノモンハ
ンで彼自身が指揮した部隊も多数含まれていた。ノモンハンよりも危機的な状況に陥っていたが、ジュ
ーコフは当時と同様の諸兵科連合戦術を、今回はもっと積極的に採用した。その結果ドイツ軍を約一六
〇キロ後退させることに成功し、冬季の間、ドイツ軍をその地点に釘付けにしたのである。まさに食う
か食われるかの戦いだったが、完全な冬季装備の予備兵を東部から送り込んだことが決定打となった。
一九四一年一二月にソ連を訪問したイギリス外相のアンソニー・イーデンによれば、スターリンはこの
とき彼に、「最近の戦局好転は、新たな援軍を導入できたためだ」と語ったという。
 ジューコフが大反抗を開始した翌日、日本は真珠湾を攻撃した。ドイツはアメリカに、アメリカはド
イツに宣戦布告し、アメリカは太平洋とヨーロッパの戦争に巻き込まれることとなった。この週は第二
次世界大戦の転機を画す、枢軸国の運命を決する一週間であった。
 だが日本の軍首脳部が一九四一年の段階で、ノモンハン事件以前と変わらず赤軍を過小評価していた
とすると、事態はまったく違う方向へ進んでいたことだろう。もし一九四一年七月または八月に北進が
決定されていたなら、おそらくソ連は崩れ去っていたと思われる。日本軍はソ連軍を撃破する必要すら
なかったのではあるまいか。アジアに長大な戦線が存在することだけでもソ連には重荷になったろう。
一八個もの師団に加え、戦車一七〇〇両、軍用機一五〇〇機をヨーロッパの戦場に移動させるなどとい
うことは不可能だったはずである。それだけではない。戦争を遂行するうえで、ソ連極東部は貴重な経
済的貢献を果たしていた。独ソ開戦の初年に西部の産業が壊滅的な被害を受けたことに鑑みれば、その
重要さのほどがうかがわれよう。一九四一年のモスクワ攻防戦も、また四二年のスターリングラードの
戦いも、ソ連にとっては薄氷の勝利だったのである。難敵の日本が極東で猛攻を加えたなら、戦局はき
っとソ連軍の不利に傾いたであろう。一九四一年から四二年の段階で二正面作戦を強いられたとすれば、
ソ連は存亡の危機にさらされたはずである。ソ連軍の将官を含め、そのように考える軍事研究家は少なくない
<ノモンハン1939 スチュアート・D・ゴールドマン みすず書房>

 加えて「ソ連がドイツと不可侵条約を結ばねばならなかったのは、英仏がドイツに譲歩してドイツ軍が
ロシアを攻めるように誘導したことに、ソ連としてやむを得ず対抗する必要があったからだ。ソ連はアジア
で日本とも対峙せねばならず、ドイツと戦争する余裕がなかった」とも主張した。プーチンはまた「英国が、
ドイツが攻めてきたら英国が対独宣戦布告してやるから頑張ってドイツに対抗せよとポーランドをそそのか
したのが大戦の一因だ」とも示唆した。
http://tanakanews.com/100611russia.php

長期的にはソ連指導部の読みが当たる
 常識的には実にもっともで、長期的にはその読みが当たることになる。ヒトラーは、十分な冬支度もせず、
ソ連の工業力と国土の広大さ、補給の困難を軽視し、無理な二正面作戦に踏み切るが、結果は周知の通りだ。
 連戦連勝だった独軍は、自信過剰に陥っていた。当時、ソ連機甲師団の実力をいちばんよく知っていたのは、
ノモンハンで手痛い目にあった日本軍だったかもしれない。
http://jp.rbth.com/arts/2013/06/22/43719.html

実はこのルート、米英からソ連に渡った補給物資の半分以上が使ったとも言われているそうだ。
太平洋にはドイツ海軍がいなかったので、安全だったのだろう。
http://ameblo.jp/kimipogo/entry-11212949404.html

邦訳者後書きには、ノモンハン停戦協定が締結された後も1941年、その7月1日現在のロシア側戦力は、
対独戦に振り向けられていた戦力より大きく、723119名の兵力、戦車4638両、航空機4777機、自動車6万余台、
トラクター1万余台、砲14062門などと、やたら記録をとる民族だけに詳しいのだが、
http://yhsvtex.blogspot.jp/2007/06/19417172311946384777614062-30003.html

2名無しさん@お腹いっぱい。2014/11/13(木) 21:46:31.37ID:gfM84pvs
05.10.2013, 22:07
Kobis17
俺が当惑してるのはさ、どうしてアメリカ人はほぼ全戦艦隊を護衛艦もなしであんな平和な港に停泊させといたんだ、ってことだよ。
アメリカの上層部はこういう攻撃を全く予想できていなかったの?日本から攻撃はないって確信してたの?
普通に考えて、アメリカなら日本にスパイとか諜報局員とか送り込んでるはずでしょう。なんでこういう行動の兆候すら捉えられてないの?
1940年にはイギリス人がタラント空襲で、どうやったら1艦隊をたやすく沈められるか実証してるじゃん!
参考:タラント空襲とは第二次世界大戦中の1940年11月11日から12日にイギリス海軍が行った空母艦載機によるイタリアのタラント軍港
に対して行われた航空作戦でMB8作戦の一部として実行された。この攻撃でイタリア海軍は戦艦3隻が大損害を受けたのに対し、
イギリス側の損害は雷撃機2機のみであった。(ウィキペディア)
日本の艦隊は太平洋を何千キロも渡ってきてるんだぞ?それなのにアメリカはず〜っと気付かなかったのか?
これが事実だとしたら、確かにアメリカ軍の高慢か、真珠湾を戦争介入の口実にしようとした巧妙に練られた陰謀しかないな。
http://blog.livedoor.jp/trans_vienna/archives/7159997.html

地上に生き残るための戦い
 なぜ対戦相手、参戦国、または戦争地域のことを示唆しない、大祖国戦争という名称がロシアで使われているのだろうか。
ロシア人やソ連諸国の人民にとっ て、この戦争は祖国の戦争以外の何物でもなかった。自由と祖国の独立を求めた戦争であり、
生き残るための戦争だった。
 ではなぜ頭に大がついているのだろうか。それはこの戦争の勝利には多くの国が貢献しているものの、ソ連がドイツ国防軍を
倒した中心国で、その役割を強調しているからだ。ドイツ軍はソ連軍との戦いで、1340万人中74%にあたる1000万人を喪失した。
 アメリカのルーズベルト大統領は第二次世界大戦の最中の1942年5月、ソ連軍の活動とそ の影響を評価してこう記した。
「ロシア軍が連合国25ヶ国の軍隊よりも、対戦国の厖大な兵士と兵器に打撃を与えているという明白な事実を無視することはでき ない」。
 ロシア人がこの勝利を誇りに思い、多くの戦線のひとつととらえたがらないのは当然のことだ。そしてドイツとその同盟国であるイタリア、
ルーマニア、クロアチアが84万人を喪失したスターリングラード攻防戦と、ドイツとイタリアが3万人を喪失したエル・アラメインの戦い
が同レベルの戦いと見なされることを理解できないでいる。ヨーロッパ諸国の多くの歴史教科書では、第二次世界大戦としてこの2つの
戦いが同等に扱われている。
http://jp.rbth.com/society/2013/05/09/42899.html

3名無しさん@お腹いっぱい。2014/11/14(金) 20:22:28.16ID:2pIlCgeb
円匙でBT戦車の主砲を殴る→照準が狂って当たらなくなる
円匙でBT戦車の機銃を殴る→銃身が曲がって撃てなくなる

本当に戦車と格闘してるんだよ。
日本の兵隊さんは大変だ。

4名無しさん@お腹いっぱい。2014/11/15(土) 00:26:10.80ID:RhTha+xe
>>2
確かに日本が真珠湾奇襲を考えたのは、タラントがキッカケ
でも、ただ、真珠湾の水深の浅さに油断していた
真珠湾の水深は12メートル、当時の航空魚雷は、投下時に50メートル潜る為、
航空魚雷は使えないとアメリカは考えて、魚雷防御網等の防備も怠った
しかし、日本海軍は、魚雷に着水時に外れる小型の羽を付けて攻撃を可能した
日本の技術の勝利だね

5名無しさん@お腹いっぱい。2014/11/15(土) 10:43:27.80ID:wGafhpVc
>>1
邦訳者後書きには、ノモンハン停戦協定が締結された後も1941年、その7月1日現在のロシア側戦力は、
対独戦に振り向けられていた戦力より大きく、723119名の兵力、戦車4638両、航空機4777機、自動車6万余台、
トラクター1万余台、砲14062門などと、やたら記録をとる民族だけに詳しいのだが、
http://yhsvtex.blogspot.jp/2007/06/19417172311946384777614062-30003.html


これこそが北進説は末端の威勢か虚性のような現実離れした実現性を伴わない底床であったと証明してる。
それこそわずか正規師団の装備は数個師団で残りは憲兵と予備役数十万だった日本は北進してロシアと応戦する戦力以前であって
そもそもシベリア報復侵攻ですら当時極東だけで100ミリ以上の主砲を3000門以上配備してたロシアに対し日本はそういう装備が1000門もなく一切北進出来なかった。

1941段階でもロシア極東対日本の装備は10倍の開きがあり
満州と比べれば装備の差は40倍だ。しかも訓練を受けた正規予備役の人数は満州で10~15万。日本で30~40万程度であり。日本の全正規予備役の数がロシアの正規予備役のかずに劣ってる。

当時の日本陸軍は防寒対策はロシア以上に優れてたが、北進以前に満州防衛をするためのジープすら不足していて
ロシアがドイツに戦力振り分けても尚不利で防戦一方だったんだよ。
ノモンハンだってあのまま続いて勝っても基本防戦だったしね。

6名無しさん@お腹いっぱい。2014/11/15(土) 18:16:41.60ID:s7Eczrq2
― あなたは、「ノモンハン事件」を知っていましたか?
 つい、声をかけると、彼女たちはまず眉をひそめ、こちらの真意をはかりかねる、といった笑顔を精一杯つくってこう問いかけてくる。
 ― それは何ですか?
 どうも話が噛み合わない。そもそもこのファイルは「ノモンハン事件」文書ではないか。
 通訳のイーゴリがあわてて間に入る。そして、ロシア語でひと言ふた言。
 そのうちに彼女たちは了解とばかりにこちらに向かってうなずいた。
− あのね。こちらでは「ノモンハン事件」とはいわないんですよ。イーゴリが、地下鉄の駅に向かう帰路の途中で教えてくれる。
― 「ハルヒンゴル戦争」つまり「ハルハ河戦争」という感じですね。そう呼ぶんです。
これは、ショックだった.同じ戦いであるのに、彼我ではまったく呼び名がちがうのだ。日本では「事件」だが、こちらでは「戦争」だ。
しかも戦場だと認識していた地名「ノモンハン」と「ハルハ河」では、場所までちかうではないか。この落差はいったいどうしたことだろう。不安になる・・。
イーゴリに別れを告げ、アパートにとって返すと、にわか勉強のために日本から持ってきた「ノモンハン事件」に関する書籍を開いてみた。
 1939年5月。モンゴル人民共和国(以下、モンゴル)と満州国(いずれも当時)の国境地帯で起こった凄惨な戦いを、日本では「ノモンハン事件」と呼ぶ。
 敵対したのは、モンゴル・ソビエト連合軍と満州国・日本連合軍である。
 あれから60年以上経過した現在、日本の資料書籍のほとんどは、歴史教科書ももちろん、いまだに「ノモンハン事件」と記している。しかし、
この戦いの一方の当事国においては、このような呼称はまったく通用しない。彼らはそれを「ハルヒンゴル戦争」すなわち「ハルハ河戦争」と記憶しつづけているのである。
 「ノモンハン事件」と「ハルハ河戦争」の間―。
 そこには、単純な彼我の呼称の問題ではすまされない認識の隔たりが感じられる。・・・
http://2006530.blog69.fc2.com/blog-entry-426.html

7名無しさん@お腹いっぱい。2014/11/15(土) 19:31:47.60ID:vRKsfau4
>>1
まずは、ノモンハン事件を語るのであれば、
1.満州国としての独立を果たしたかの経緯。
2.日本の関東軍と満州国との関わり。
3.満州国軍とモンゴル軍との国境争いの原因。
4.ロシア軍がなぜ満州国に介入したかの考察。
これらの説明がなければ、ノモンハン事件は誰も意見を述べられない。
いたずらに、歴史を語っても素人のたわごとですよww

8名無しさん@お腹いっぱい。2014/11/15(土) 19:36:59.49ID:vRKsfau4
文章というものは、長いとだれも読まない。
簡潔に短い文章でまとめないと、読まないからねww
論文じゃないんだから。

9名無しさん@お腹いっぱい。2014/12/25(木) 18:23:03.30ID:cmxgdZen
人間の気持ちというものを考えれば簡単に想像がつくことだと思うが、どの連合軍兵士にとっても
5月8日以降の死は全部ムダ死にで、当然、戦場でも著しく消極的になっていった。
沖縄戦に参加したアメリカ人やイギリス人は、「ひどい不公正だと感じた」と言い、空でも陸でも
「自殺攻撃」してくる日本人をみるたびに、「なんでこいつらは親玉のドイツ軍が降伏したっていうのに、
まだ戦争をやりたがるんだ」と考えたもののようだった。
なんのために?
日本人からみれば、(当然だと思うが)民族の力を傾けて華々しく、アジア人同胞のために、
少なくとも初期には互角以上に「白人」と戦ってみせたつもりの太平洋戦争は、アメリカ人や
イギリス人にとっては、ナチと四つに組んで戦っているのをいいことに、後ろから襲いかかっ
てきた卑怯者との戦争にしかすぎない。
https://gamayauber1001.wordpress.com/2014/06/05/pacificwar/

>アメリカ人やイギリス人にとっては、ナチと四つに組んで戦っているのをいいことに、

地上に生き残るための戦い
 なぜ対戦相手、参戦国、または戦争地域のことを示唆しない、大祖国戦争という名称がロシアで使われているのだろうか。
ロシア人やソ連諸国の人民にとっ て、この戦争は祖国の戦争以外の何物でもなかった。自由と祖国の独立を求めた戦争であり、
生き残るための戦争だった。
 ではなぜ頭に大がついているのだろうか。それはこの戦争の勝利には多くの国が貢献しているものの、ソ連がドイツ国防軍を
倒した中心国で、その役割を強調しているからだ。ドイツ軍はソ連軍との戦いで、1340万人中74%にあたる1000万人を喪失した。
 アメリカのルーズベルト大統領は第二次世界大戦の最中の1942年5月、ソ連軍の活動とそ の影響を評価してこう記した。
「ロシア軍が連合国25ヶ国の軍隊よりも、対戦国の厖大な兵士と兵器に打撃を与えているという明白な事実を無視することはでき ない」。
 ロシア人がこの勝利を誇りに思い、多くの戦線のひとつととらえたがらないのは当然のことだ。そしてドイツとその同盟国であるイタリア、
ルーマニア、クロアチアが84万人を喪失したスターリングラード攻防戦と、ドイツとイタリアが3万人を喪失したエル・アラメインの戦い
が同レベルの戦いと見なされることを理解できないでいる。ヨーロッパ諸国の多くの歴史教科書では、第二次世界大戦としてこの2つの
戦いが同等に扱われている。
http://jp.rbth.com/society/2013/05/09/42899.html

10名無しさん@お腹いっぱい。2015/01/07(水) 17:28:42.75ID:nrxhKVb9
◆ソ連の極東政策
 ソ連の西部国境は比較的平穏であったのに対し、同時期の極東の国境では、
熱い外交的・政治的紛争が、直接的軍事衝突の形をとりつつあった。
 最初の軍事衝突は1929年の夏から秋にかけて、北満州で勃発した。その原因
となったのは東清鉄道であった。1924年のソ連と中国北京政府の条約で、東清
鉄道はソ連と中国の共同管理下に移管されていた。しかし、1920年代末までに、
中国管理部はソヴィエトの専門家により排除され、鉄道とその支配下の部門は事
実上ソ連の所有に移行した。このような事態になりえた要因は、中国の極めて
不安定な政治状況であった。1928年、中国全土の統一を目指す蒋介石政府が権
力の座につくと、東清鉄道を軍事力で取り戻そうとした。
 軍事衝突が発生した。ソヴィエト軍は中国領内で、軍事行動を開始した中国
国境守備隊を粉砕した。
 同時期、極東では日本という戦争を煽る強力な源が台頭した。1931年に満州
を占領した日本は、ソ連邦との国境線に接近したが、当時のソ連の所有下に
あった東清鉄道は日本が支配している地域にあった。日本の脅威は、ソ連と中
国の外交関係を復活させることになった。
 1936年11月にドイツと日本は反コミンテルン協定(日独防共協定)を締結、
その後同協定にイタリアとスペインも参加した。1937年7月に日本は、大規模
な中国侵略を開始した。このような状況下、ソ連と中国は相互に接近し、1937
年8月に不可侵条約が締結された。条約締結後、ソ連は中国に技術的・物質的
援助を行った。戦闘では、ソヴィエトの指導員や志願飛行士が中国軍側で闘う
ことになった。
 1938年夏に、日本軍とソ連軍との軍事衝突がソヴィエト・満州国境で始まっ
た。日本側にとっては、最初の偵察戦闘であった。結果としてソヴィエト国
境を占領できないと思われたものの、日本軍は1939年5月にモンゴル人民共和
国内のハルヒン・ゴル川域へ侵略した(ノモンハン事件)。ソ連には1936年にモ
ンゴルと締結した相互援助条約があった。その任務にしたがって、ソ連は軍隊
をモンゴル領内へ進めた。

ロシアの歴史〈下〉19世紀後半から現代まで―ロシア中学・高校歴史教科書
http://bookweb.kinokuniya.co.jp/htm/4750334162.html

11名無しさん@お腹いっぱい。2015/06/11(木) 15:21:42.36ID:XRA69ptV
 ソ連軍は、ノモンハンにおいて日本軍の損害は最大5万5千、そのうち2万3千が戦死したと見積もった。
関東軍の公式報告によると、出動したのは7万5千で、戦死は8632人、負傷9087人としている。他方で、
ソ連軍は、戦死9703人、負傷1万6千人となっている。
 ノモンハン戦でのソ連赤軍の勝利に決定的な役割を演じたのは間違いなく戦車部隊だった。ソ連指導部は、
ノモンハン戦において日本軍の精強さに甚大なショック受け、ドイツ軍の対ソ侵攻作戦が開始されてなお、
赤軍の最強兵力を極東方面に残留させていた。
 ジューコフ元帥は、第二次大戦でもっとも苦戦したのはハルヒン・ゴール(ノモンハン)だったと吐露したほどの激戦だった。

ノモンハン戦車戦
著者  マクシム・コロミーエツ、   大日本絵画 出版 
http://www.fben.jp/bookcolumn/2011/02/post_2810.html

12名無しさん@お腹いっぱい。2015/06/12(金) 15:52:05.84ID:l50dPnGr
             アメリカの内通組織、日本海軍!

「1532」

明治10年(1877年、西南の役で、西郷隆盛たちが新政府に嵌められて、
不満分子として殺された)には全ての仏(フランス)技術者が帰され、それからの帝国海軍は、一気に英国式になりました。
米英は、日本海軍にどういう内通者を置いたか?海軍のフリーメーソン人脈は?

米内、山本、井上の“海軍反戦トリオ”は、戦争開始前からのアメリカへの内通者で、
日本を負けるように仕組んで、今の日米安保体制に持って行った私もと思います。

「今日は出撃はないだろう」と艦上の攻撃隊だった飛行士たちが証言している、
ということは、その後の海軍が言い続けた大嘘の「運命の5分 」はなかったと言うことです(沢地久枝さんが暴露しました)。
山本五十六(やまもといそろく)聯合艦隊司令長官、は、
始めから負けるように仕組まれて、そえでミッドウエーで4隻の主力空母を失わせられたのだ、と推測されます。

海軍の“海軍反戦トリオ(米内、井上、山本)”は、戦後の創作(でっちあげ、虚構)であり、
彼らは始めから敵と内通していた英米派だった。
海軍は、陸軍とは断固協調しないで、日本を始めから戦争に負けるように仕向けたのだ。
あの“海軍善玉、陸軍悪玉(陸軍が戦争の元凶を作った)“論を書き続けた言論人、評論家たちは、
どう反論するのかと、私はずっと疑問に思っています。

彼らは、これから、真実の炎で、焼き殺されなければいけない。
今からでも大きな真実を語ろうとする者たちの声を、集めなければいけない。
そしてどんどん表に出さなければいけない。

米内(光政、よないみつまさ。開戦時もずっと海軍大臣だった。副島隆彦注記。こいつが軍人では最大のアメリカの手先。
極東軍事裁判でも、絞首刑になったのは、東條英機以下6人陸軍ばかりで、あと一人は外交官の広田弘毅=ひろたこうき=だ。
海軍は、ひとりも死刑になっていない。起訴さえされていない。
このことのおかしさを、日本国民は、真剣に考えなければいけない。

13名無しさん@お腹いっぱい。2015/06/12(金) 15:53:41.06ID:l50dPnGr
戦後作られた「海軍善玉論」神話(海軍は、ずっと平和主義者だった。
悪いのは陸軍だった、という歴史の捏造。文藝春秋と新潮社から、戦後、沢山の本が出た)。

ミッドウエー海戦という決定的な敗北を喫した。これで日本の太平洋戦争での敗北は、早くも決まった。
山本は、ずっと呉(広島)の戦艦大和の艦橋に居て、無線で指令を出していた。
無線封止(むせんふうし)さえしていなかった。これらはすべて露見している。
本当は、ミッドウエーには、戦艦大和 が先導して、空母艦隊を守りながら、戦闘(海戦)をするべきだったのだ。

今もなおアメリカの手先を自認している者ども、おのれらの恥多き人生を深く、真の英霊たちに向かって恥ぢよ。

この時の、「飛龍」艦長、山口多聞(やまぐちたもん)少将(第2航空戦隊司令官)の戦い方と死に方こそは、
帝国海軍の軍人の鑑(かがみ)である。
敗戦後も、おめおめと生き延びて、「私たち海軍は、平和主義だった」などと、
よくも、あの恥知らずの、アメリカの奴隷になった軍人どもは、言えるものだ。
文藝春秋、新潮社よ、産経バカ右翼は論外)お前たちの歴史の偽造を、私、副島隆彦は絶対に許さないからな。
山口多聞は、艦長として残り、飛龍沈没と運命を共にした。

南雲忠一(まぐもちゅういち)、栗田健男(くりたたけお)(聯合艦隊司令長官)ども!!!許さん。
それから、航空隊の司令官の、源田実(げんだみのる。戦後もずっと自衛隊代表で、参議院議員をやっていた)。
お前たちも、心底、怪しいのだ。始めからアメリカとつながっていた、スパイ軍人どもだ。
お前たちを、これから、日本国の真実の歴史の法廷に、引き釣り出す。

ミットウエー海戦で敗退したあとも、山本を連合艦隊長官から罷免せず、単に海軍内の庇(かば)い合いだけをした。

私が言いたいのは、海軍首脳は始めから負けるように作戦を立て、
陸軍を太平洋に引きずり込んで、海軍も陸戦隊(りくせんたい)や基地の設営部隊は見捨てられました。

メディアも“海軍反戦トリオ”“海軍3提督”とかの虚構は作るものの、真の敗戦責任を問うた事がありません。

14名無しさん@お腹いっぱい。2015/06/24(水) 07:34:19.00ID:imFpLfUY

15名無しさん@お腹いっぱい。2015/06/29(月) 09:33:46.83ID:kXIBumsa
註1:興味深いことに、司令官としては初の「大舞台」となったノモンハン戦において、ジューコフは後のスタフカ代表
とよく似た形で戦場に向かっている。すなわち、初動において戦況が思わしくなく、しかも現地からの情報が乏しい
ことに苛立った国防人民委員ヴォロシーロフが、状況把握のためにモンゴルへ送ったのがジューコフであった
(同様の目的で、他にも2人の将校が現地入りしている)。必要があれば現地軍の指揮を継承するという「オプション」
つきではあったのかもしれないが、当初の目的はあくまでも視察と報告、助言である。正式な派遣命令が下った
のが5月24日、現地で第57特別歩兵軍団の司令官に任命されたのが6月12日のことで、この間のジューコフ
はヴォロシーロフ宛ての報告活動に専念している。
 当時のソヴィエト軍の統帥は相当に混乱していた印象があり、ジューコフの前任者として第57軍団を指揮して
いたニコライ・フェクレンコは、ヴォロシーロフから「モスクワの指示がない限り積極的な行動には出るな」とくぎを
刺される一方、戦況不利となるとその責任だけを追及されてしまい、かなり苦労したようだ。またジューコフ着任後も、
砲兵隊の監督として国防副人民委員グリゴーリー・クリークを送り込むという、いわば屋上屋を架すようなこと
をやっている。しかもクリークが現場の状況に応じて指示を出すと、今度はヴォロシーロフから「勝手な動きをするな」
との叱責が飛ぶ有様であった。当時は、全てをコントロールしようとする中央と振り回される前線の双方が強いストレス
を感じていたのではないだろうか。後のスタフカ代表制度がこのストレスを完全に取り除いたかどうかは分からないが、
しかしノモンハン段階での混乱に比べると格段に進歩した、よくできたシステムであったと思う。
http://www.geocities.co.jp/SilkRoad/5870/predstaviteli.html

16名無しさん@お腹いっぱい。2015/10/25(日) 15:19:24.81ID:jUeAa1RV
どうやっても日本が負ける論者をよく見かけるが、それなら史実の通りでよかったということになるはずだ。
そしてその場合、無謀な戦争をした軍部と天皇の責任がどうたらという議論は、絶対にあり得ないことになる。
満州事変やシナ事変を責める論法もよく見かけるが、1944年の大陸打通作戦は、どうみても日本軍の大勝利。
だから日本は米国には負けたが中国には勝った、日本は米国と戦争せず中国とだけ戦争すればよかった。
大陸打通作戦を徒労で無意味という論者も見かけるが、徒労で無意味なのはむしろマリアナ決戦。
すでにそのころの日本海軍は死に体も同様で、マリアナ決戦はやるだけ徒労だったはずだ。
大陸打通作戦をやらずに他にどうしたらいいのか、代案も無しに反対反対を言ってみてもしょうがないし、
また無条件降伏をすればいとのことなら、大東亜戦争そのものを最初からやらないほうが良かっただろう。
さらに言えばハルノートを受諾するくらいなら、満州事変もやるべきではなかったことになるし、
また満州を放棄すべきとのことなら、台湾も朝鮮も放棄すべきだったか、日露戦争もやるべきでは
なかったとか、明治以来の日本の歩みを全て否定しなければならなくなるはずだ。
1943年12月の「カイロ宣言」はまさに明治以来の日本の歩みを全て否定する内容であり、
この内容を受け入れて降参するくらいなら、大陸打通作戦で中華民国を滅亡させたほうが百倍マシだ。

17名無しさん@お腹いっぱい。2015/10/27(火) 18:17:07.42ID:RwC09dwc
 開いた口がふさがらないほどの驚きを体験したのは、ヒトラー自身も同様だった。
 翌日、八月十六日午前四時二十五分、外務次官ヴァイツゼッカーは駐ソ大使シュレンブルグ
の「大至急極秘電」を受理した。
 前夜午後八時(モスクワ時間)にソ連外相V・モロトフに面会して、外相リベントロップの
訪ソ申し入れを伝えた報告である。
 外相モロトフの反応は予想外に好意的で、申し入れを「最大の関心」をもって受け取り、
わざわざ外相リベントロップが来るからにはそれなりの成果が必要だろう、と次の三項を提案した。
 @独ソ不可侵条約の締結、A日ソ関係を改善し国境紛争(ノモンハン事件)を終熄させるために
ドイツが日本に影響力を駆使する、Bバルト海諸国の共同保障。
 そして、外相モロトフは、とくに不可侵条約についてドイツ側が賛成なら、ドイツ外相はたんなる
話しあいではなく具体的決定を用意して訪ソしてほしい、と強調したというのである。
 外相補佐官E・コルトは、午前六時四十分、電報内容を電話でザルツブルク市郊外の別荘に
いる外相リベントロップに伝え、外相は直ちにヒトラー山荘に急行した。 
 ヒトラーは、驚き喜んだ。
 なんとソ連側から不可侵条約を提議してくるとは・・・・・・。
<児島襄「ヒトラーの戦い2」>

18名無しさん@お腹いっぱい。2015/12/02(水) 08:31:32.99ID:S3C+GdJD
ソ連軍はノモンハンで細菌戦をやらかしてた!

731部隊の人体実験・細菌戦は嘘(全て作り話)10・飛行機細菌作戦の怪5・「関東軍防疫給水部」の任務と活動状況・『ノモンハン戦場日記』・『ノモンハン事件の真相と戦果 ソ連軍撃破の記録』
http://blogs.yahoo.co.jp/deliciousicecoffee/13519895.html

19名無しさん@お腹いっぱい。2015/12/28(月) 13:47:46.34ID:hZGpTMt7
スターリングラード攻防戦に投入される以前、チュイコフは軍事顧問団の団長として、中国で日本との戦いを支えていました。
チュイコフがスターリングラードで取った戦法は、中国での日本との戦いの経験から得られたものだったのです。
 このように、スターリングラード攻防戦を勝利に導いたのは、ノモンハンや中国での、日本との戦いの経験があったためです。
http://cccpcamera.asablo.jp/blog/2006/01/15/212449

チュイコフは、このとき四二歳。大戦勃発のとき、中国の大使館付き武官をつとめており、一九四二年三月に帰国した
ばかりであった。彼は七月まで作戦に参加しなかったが、それ以後は、非常によく活動した。果断、誠実、そして楽天的な男であった。
 スターリンは、もちろんこの任命を承認した。彼はエレメンコに「君は、彼をよく知っているかね」と訊ねただけであった。
 エレメンコは「チュイコフは指揮官として信頼できる男だとおもっています」と答えた。
http://ktymtskz.my.coocan.jp/E/EU/sobiet5.htm

ドイツ軍は近接戦が不得手
またドイツ軍の歩兵は、近接戦闘を好まないということに気がついた。ドイツ兵は、
一〇〇〇メートルもさき から、自動火器の弾丸をばらまきながら前進する方法を好んでとっていた。
これら二つの要素――つまり協同戦闘と、近接戦の不得手――にたいしてとるべき戦法は、
できるだけ敵に近接することだ、と彼は結論した。
http://ktymtskz.my.coocan.jp/E/EU/sobiet5.htm

20名無しさん@お腹いっぱい。2016/03/04(金) 21:29:42.78ID:0It0bWSG
 今との大きな違いは中国(共和国)の存在感。今でこそ大国の貫禄充分だけど、当時は共産国家としては新興。
「金は侵攻が始まったことを中国当局に通報さえしなかった」というから、影の薄さがわかろうというもの。
 などと舐められちゃいるが、中国にも参戦せにゃならん理由がある。東欧の各国は完全にソ連の衛星国
になったが、中国は飲み込まれるつもりはない。ここらでガツンと一発存在感を示して、中国共産党の偉大
さを示そう、という腹。いずれ北朝鮮が敗走すると読み、表向きは渋るポーズでソ連の航空援護を引き出
そうとしつつ、着々と開戦準備を進める。
http://chikuwablog.cocolog-nifty.com/blog/2012/01/post-ab3f.html

 一九五〇年の夏、朝鮮戦争が勃発して秋に「中国人民義勇軍」の出動が決まると、私は前線行きを志願した。
抗日戦争にも内戦にも参加していないので、祖国のために奉仕するチャンスがほしかったのだ、内心は中国
に勝ち目はないだろうと思いながら。なにしろアメリカ合衆国のほうが中国よりも格段に発展していたし、
装備がはるかにすぐれていたからである。
 私は戦況をつぶさに追い、中国の「義勇軍」が崩壊しないばかりか、連戦につぐ連戦で「国連軍」のアメリカ軍
を敗退させつつあるのを知って驚き、かつ興奮した。一世紀以上にわたって、中国が外国軍と戦端を開いて
面子をうしなわなかったのは今回がはじめてだった。私はまた、アメリカ軍が朝鮮で細菌を用いているという
報道に唖然とした。戦争が膠着状態に入っても、私は中国人であることが誇らしかった。しかし上司たちは
私の前線志願を却下し、中南海での医療に従事するほうがずっと大切だという主張をくり返すばかりであった。
<毛沢東の私生活(上) 文春文庫  李志綏 P95>

「一九四九年の冬、解放からわずか数か月後にソ連と直接交渉するため、私はモスクワへでかけた」と、
主席は話しつづけた。「ところが、スターリンは私を信用しないんだ。話し合いもしないで二ヶ月もほうって
おかれた。しまいに私も頭にきて言ってやった。『交渉したくないのであれば、交渉するのはよそう。
私は帰国するまでだ』とね。このようにしてやっと中ソ友好同盟相互援助条約を結んだのだよ」
 朝鮮戦争もまた、毛沢東とスターリンとのあいだで緊張関係を生む一因となった。中ソ両国は戦争中
ずっと協力しあってきたと思いこんできた私だけれど、実際はそうではなかったと毛は言いはる。
「朝鮮戦争中、アメリカ軍が中朝国境の鴨緑江に到達したとき、私はスターリンに対しわれわれは
軍隊を派遣して闘わなければいけないと言ってやった」。ところが、スターリンは「ノー」と返事した。
第三次世界大戦を誘発するものと思ったからだ。
<毛沢東の私生活(上) 文春文庫  李志綏 P192>

21名無しさん@お腹いっぱい。2016/03/05(土) 00:29:31.43ID:cF/YxuNx
 フィンランド軍は、ソ連側の要求を一蹴し、準備不足のソ連軍の弱みをついて、猛烈に反撃した。
「わが軍のほとんどの将兵は、フィンランド軍に木っ端微塵にやっつけられた」と、フルシチョフは
後に記している。これは誇張ではない。この冬季戦では、フィンランド兵四万八〇〇〇人に対し、
ソ連側は実に一二万五〇〇〇人以上の将兵を失っている。フィンランドは、ソ連政府に心理的
にも打撃を与えた。フルシチョフは続けて言う。「ドイツは、ソ連の実態が、粘土のような脆弱な
足を持つ巨人、であることを見て取った。フィンランドが、あのような抵抗を続けられるのなら、
力のあるドイツが強力な一撃を食らわせば、この巨人は簡単に倒れると、ヒトラーは考えたに違いない。
フィンランドに敗れ、スターリンは慌てふためいた。これではとうていヒトラー軍に対抗できないと、
完全に自信をなくしてしまった」。結局フィンランドは、ソ連の提示した最初の条件を呑むことになるが、
この戦争の経緯は、スターリンの期待を大きく裏切るものであった。
 スターリンは後に、チャーチルとルーズベルトに対し、フィンランド作戦について「赤軍は、全く役に立たなかった」
と漏らしている。結果的に、ヴォロシロフ国防相は解任された。このようにスターリンは、事が不首尾に終わると、
すべての責任を他人に転嫁した。この行動パターンは、その後も彼が苦境に立たされるたびに、繰り返し見られた。
作戦がずさんな計画の産物であり、フィンランドのマンネルハイム線の防備が、予想以上に強固であったのに、
それを察知できなかった自国の諜報機関の失態、自動火器や防寒具の不備、補給線が絶たれたことなどが
敗因であると、スターリンは言い張った。
 スターリンとは全く対照的に、ヒトラーは、ポーランド作戦が、その後のドイツ軍の一連の勝ち戦のほんの序章
だったことを証明して見せた。一九四〇年四月から六月にかけて、ドイツ軍はノルウェー、デンマークを占領し、
オランダ、ルクセンブルクを席巻した後、ベルギーに攻勢をかけ、マジノ線を突破してフランスに突入した。
フランスがあっけなく陥落すると、スターリンは悔しさのあまり、つばを飛ばしてまくし立てた。
<「モスクワ攻防戦」 アンドリュー・ナゴルスキー>

22名無しさん@お腹いっぱい。2018/01/23(火) 10:23:14.90ID:rpQ5UjMt
満州国は国際法違反かつ陸軍刑法違反の産物だが、
チベットやウイグルとはぜんぜん違うな

23名無しさん@お腹いっぱい。2018/08/24(金) 11:54:10.85ID:bg4oNLpE
兵士は生き延びてもまた
次の現場では蜂の巣じゃないのかな
まわりがつよいから
前半にやられるか後半にやられるかの違いか

24名無しさん@お腹いっぱい。2018/08/29(水) 03:51:01.76ID:eNyhD83i
経済的にも自由が手に入りたいなら「立木のボボトイテテレ」で検索すればいいと思う

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